大正の終わりに、火山の噴火のように突然日本という 地上に現れた 燃えさかる熱い石だったカルシュ先生
熱い石は周囲に衝撃的に大きな影響を与えてくれたのに、時とともに冷えて、いまでは誰からも忘れられてしまっている。
たまたま通りかかったひとりがそれを見つけた。 手にとって丁寧に汚れを払いのけ、昔の姿を偲んでいる。
冷えてできた軽石は素朴な姿で、もはや何の特徴もないように見える。 でも今、この手でそれをそっと暖めると小さな穴に残った香りを取り囲む空気が膨らんで外に漏れ出てくる。
すると、当時の情景が眼前に蘇って来る・・・・・・・・・・・
1999年の8月から9月にかけて、ドイツのカールスルーエで行われたヨーロッパ自動制御学会で大会長のP.フランク教授の推薦を受けて、実行委員として参加しました。会議終了後の9月4日 高原健爾博士らと、シュトゥットガルトに足を踏み入れました。金銭に余裕のない一行は駅のInformationで受けた紹介から無意識に安価なホテルを選択しました。 これが、運命のホテルでした。翌日の朝ダイニングルームで、我々に微笑みかけた婦人との会話から彼女の父が旧制松江高校のドイツ語の教師であったことを知りました。軽い会話の後に彼女の住所の書付を手にして、その場を去りました。たった、5分程の会話でした。これが、すべてのストーリーの始まりでした。
カルシュ博士は大正14年より14年間にわたり、旧制松江高等学校(現・島根大学)で教育に力を注いだドイツ人哲学者です。彼は、日本の哲学や宗教の研究家で教育者であり、昭和15年から5年間は外交官でもありました。彼の薫陶を受けた著名人には「長崎の鐘」で知られる永井隆、免疫学者の奥野良臣をはじめとする科学者、著名な政治家の赤澤正道、福永健司、細田吉蔵、それに文学者、法律家、外交官など枚挙に暇がありません。当時の朝鮮、台湾からの学生で、戦後に故国の復興などに尽力した有能な医師、技術者なども挙げることができます。ラフカディオ・ハーンと並ぶ功績を残した同博士は、数多くの優れた風景パステル画、歴史的写真、それに専門著書、関連図書と膨大な未整理の研究成果を残しています。
戦中・戦後の混乱により歴史の狭間に埋もれた、偉大なカルシュ博士の足跡が広く国民に知られることを心から念じ、2000年以来、日本国内、ドイツおよび米国で蒐集した関連資料の永久保存の呼びかけを行ってきました。
カルシュは生徒の要請でゲーテの詩、ヨーロッパの社会、自らの宗教観を語った。
調査をもとにして得られた、膨大な資料と写真から彼の当時の生活や生徒との交流をほぼ再現できました。しかし、調査を始めて間もない頃に協力してくれた同博士の愛弟子は殆どがすでに他界してしまいました。彼らの残してくれた言葉や手紙を時に想い出す今日この頃です。ドイツの文化と風土に、若き日に触れる機会をドイツ政府から与えられた者がドイツの小さなホテルでカルシュ博士の次女フリーデルンに偶然に出会って、このような仕事に携わることになったのは、小生に与えられた天命と考えています。
数多くのエピソードのうち、隣家が火事に会った時に、信じられないような日本人の行動に胸打たれた、当時9歳の長女メヒテルトは、終生日本人とはこういう人たちだと思いこみ、その行動を今も自分の子や孫、そして近隣で語っているとのことです。
寮や寮生がどのような生活をしていたか、その概要はあまりにも弘南寮での我々の体験に類似していました。
○カルシュの遺品
カルシュの残した膨大な哲学の未発表原稿、写真、絵画、調度品などを広く世に公開できるものと期待しています。というのも彼の残した足跡が広く全国的に確認できるからです。
○カルシュの私生活
カルシュは周囲の人たちとともに自ら描いた約90枚のパステル画、水彩画を残しています。
カルシュは近所の子供たちとの付き合いをも大事にして、多くの日本人形を買い揃えました。偉人に関する逸話、神話、それに絵本(講談社)を全巻揃えました。これらはアメリカの長女メヒテルト宅に現存しています。
日本各地での印象のドイツ語での講演 の録音テープがあります。 なお、若松,は2016年3月にドイツ語で以下の題目の本を出版し、これに対して これまでに、NHK松江放送局、松江歴史資料館、島根大学、軽井沢歴史民俗資料館、米子コンベンションセンター などで写真展示会を開催しています。
今後、以下の新聞記事にあるように、引き続き 新たな形式でドイツ人の協力者と共に出版することと1,500枚に及ぶ各地での写真展を考えています。
いずれも、山陰中央新報社の報道記事です。
◎ アワード賞を受賞 カルシェ紹介番組で中国地区番組の優秀賞を受賞した。
◎ 功績を顕彰する ドイツの知人と新たに共同で本を出版、展示会をすることになった。
◎ 写真展を開催 島根大旧奥谷宿舎で写真展を開催した。