弘南寮よもやま話

                  斉藤 粛   (34電工)
1. 寮祭の思い出  ファイアストームの燃料にするため,京浜急行の金沢文庫駅の操作場?に置かれていた古い枕木を失敬しに行ったことがあります.夜間二人がかりでも重たいので,何度も休み休みしながら運びました.
2. 栄養士の採用  食事委員をしていた時,おばちゃんの献立の手伝いと栄養的観点からの内容改善を考え,工学部の他の寮に加えて経済学部の寮にも参加してもらい栄養士さんを頼み,弘南寮では週一で来てもらっていたと思います.費用は覚えていませんが各寮から人数に合わせて拠出してもらったかと思いました.後から大学に支払ってもらったようにも思いますが,はっきりしません.


弘南寮の良き頃
                 髙石周志   (36電工)
                 令和2年10月3日
 私は昭和32年に弘南寮に入り、4年間の寮生活は人生で最も愉快な時でした。 終戦後12年しか過ぎていない時代で、食べ物も、着るものも不足した貧しい世の中でした。 入寮したら、弘南寮には洗濯機がなく、洗濯板にタライで手洗いし、洗面所や廊下に干して、そのまま忘れてしまう時もあり、気が付くと自分のか、他人のか区別なく取り込むこともありました。 皆が粗末な衣類で区別も付かなくお互い文句もなく生活していたのでしょう。
 食事も粗末なもので、即席ラーメンもない時代で、夜中に飯盒でメシを炊き、頃合いになると先輩が部屋に来て食い逃げされたこともありました。 当時コメは配給で、米穀通帳なるものがあり、大学周辺には外食券食堂があって、配給の食券を出すと安く食べられました。 昭和35年頃寮長になり、一汁一菜の粗末な食事を何とかしたいと、麦飯を白米に変えたらどうかと検討し、美味しくて量が増えるのでは?との意見も出ましたが、幸いお替りのない丼飯なので、コメの量はそのまま、寮費も上げずに改善できて、寮生に喜ばれました。
 其の頃日本中、安保反対運動が盛んで、ノンポリの私を含め、寮生も反対運動に駆け付けました。寮では誰もラジオを持っていないし、新聞も食堂に1部あるだけで、詳しい情報は知らなくとも参加すれば500円の手当が貰えるので、アルバイト代わりに参加したようなものです。ラーメンが50円の時代の500円は貴重でした。 貧しく、娯楽もなく、貧富の差も少ない時代に、お互い助けあう生活で、寮生の上下関係での厳しさはなかったと思います。寮生が飲んで世間に迷惑を掛けても、警察沙汰になっても大目に見てくれた時代だったのでしょう。


                田中 征夫    (38機械)
* 2年先輩の片山寮長が自分を寮生として選んでくれることがなければ、貧乏な自分は大学生活を続けることは不可能だったという感謝の思いが非常に強く、自分が選ぶ側に立ったときにそのことを意識して選択したという思いがあります。
* 寮祭開催の是非を検討する寮生全員会議で寮祭のなんたるかを全く知らない新入生が(予め開催反対者に入れ知恵されていて)トンチンカンな反対をすることがありました。「一律に全員に投票権を与える」というのが本当に民主的なのか? 投票権にはそれを与えるための資格条件が不可欠ではないか?という事例に遭遇する度に思い出します。
(2)受験オンリ-の生活から解放されて「合ハイ」は一つの新しい経験でした。期待したほど楽しかったという思い出はありませんが、異性の友達ができる数少ない機会であったことは事実と思います。「相模女子大学寮」が多かったですね。
(3)週1回栄養士が来る方式は我々が入寮する以前からあった制度です。極端に少ない予算で献立に工夫の余地があったのだろうか? 彼女たちには実習というインタ-ンめいた成果があっただろうか?貧しい時代に対する素朴な疑問です。 寮生とのロマンスは結婚に至る沢山の事例がありますね。
(4)小生の自慢は「泥棒を捕まえたこと」です。寒い朝、例のように遅く起きて、食堂に行くべく2階から階段を降りる途中で(自分より)若い男が「おはようございます!」と言いながらすれ違った。朝食を終えた頃「泥棒だ!」という大声が聞こえた。直感的に「さっきの奴!」と思い,部屋に取って帰り着替え、「金沢文庫駅」まで走った。(足には自信があった!)「上りのホ-ム」の人の群れをかき分け,探すとベンチに座っている彼を見つけた!いきなりとっ捕まえ,手に持っていたドイツ語辞書を取り上げ裏表紙を開けてみると「浜島 辰郎」とある。2年後輩の寮生に名だ。「これはなんだ!」「友達のだ」「嘘をつけ!」等々のやり取りの後,腕を逆手に取り,駅前交番まで連れて行った。彼は全く抵抗せずだった。 そのまま、供述書作成のため,鉄網付きの車に同乗し,金沢八景警察署まで連れて行かれた。当日は材料力学のテストの日で警察から「中村 康治教授」に電話した。 テストはできなかったのに単位は呉れた。「ズボンのポケットから8万円出てきた」との警官の話。咄嗟の判断が貧乏学生達の懐を救った。 駅まで全力で走れたこと、駅舎がまだ平面立地であったこと、犯人が凶器を持っていなかったこと、無試験で単位を呉れたこと,等々今や昔話である。


                  稲田 浩一  (38電工)
 田中さんの回顧録を読み、あの泥棒事件が思いだされました。当時の会計は私だったのでもし田中さんの健闘がなかったら親に泣きつく以外になかったと思いますが、当時の8万円は大金で、親も苦労したことだろうと、本当に感謝しております。なお、当時の部屋には鍵が無かったような気もします。
寮の思い出としては限がありませんが、なんといっても現在毎年続き、たくさんの出席者が集まる寮祭だと思います。多分に寮生時代の生活の思い出が何よりも増して深く、また、楽しかったからだと思います。当時横浜国大にはほかにも幾つかの寮がありましたが、現在も続く寮祭は私たちだけのようです。寮長をはじめ先輩、後輩との気楽な交わりが第4寮独特の雰囲気を作り出していたためと思います。


                  久米 範住  (38造船)
 さて、4寮での思い出ですが、小生として思い出すのはどんぶり酒を飲まされてー合成2級だったと思う=称名寺まで走らされた事。(小生酒を飲むと走れなくなり実際には寮で寝て居ましたが…。)それと人生の良き友人を得たこと、(これが素晴らしいと思う、友人を持ちたければ入寮する事です)合ハイやロマンスは田中兄の言う通りです。