弘南寮の想い出Ⅲ   荒木道郎(応化37卒)

                                  2020.6.11投稿

§1 はじめに

これは「弘南寮の想い出Ⅱ」(2019.5.16)の続報に当たる。今回は弘南寮入寮の前後の横浜の様子や当時の社会情勢も含めて記すことにしたい。


§2 弘明寺キャンパスで行われた入学式とオリエンテーション

 1958年度の入学式は弘明寺キャンパスの大講堂で行われた。晴れた暖かい日だった。式の後、入学祝賀会などはなかったように思うが、それでも本館前の鈴木煙州先生の「名教自然」の石碑前に工学部・経済学部・学芸学部の数多くの新入生が集い、明るく華やいだ雰囲気だったことはよく覚えている。
 その日にはカリキュラムやクラブ活動のオリエンテーションも行われ、もちろん入寮選考会もあった。国大グリークラブ無伴奏男声四部合唱団の演奏を初めて聴いたのもこの日だった。その重厚なハーモニーにすっかり魅せられ、それを醸し出すすばらしい人間関係も垣間見えて即座に入団を決めた。この年度の工学部の新入生は男子のみだったが、学芸学部には地元出身の多くの女子学生が、経済学部には新宿高卒の才媛もいたのに、「むさ苦しい男ばかりの合唱団に何故入ったのか ?」と後ほど散々笑い話のタネにされたものである。


§3 入寮詮衡会について

 本館右手の機械工学科の裏手にあった木造平屋建ての建物の前に、「寮生詮衡会会場」と墨書された立看板があった。「選考」という言葉があるのになぜ「詮衡」という古めかしい言葉を使うのか不審に思ったことをなぜか今も鮮明に覚えている。今回改めて大辞林を調べたところ、「せんこう」の見出しに対応して【選考・▼詮衡】の2つの漢字があり、『意味も読みもまったく同一だが、「▼」の記号は常用漢字表に採録されていないことを示す』と記されていた。
 面接会場には各寮の寮長らしき人が数人並んでおり、面接を受けた。初めて親元を離れ広島から遊学した私は親からの仕送りがほとんど見込めず、入寮を切望していたのだが、社会経験が絶対的に不足していたためか、この大事な面接で入寮志望の理由をうまく表明できず、あえなく失敗。その後1年間、辛く苦しい下宿生活を余儀なくされた。

§4 下宿探し

 やむなく下宿探しをすることにした。学生課には学生用の下宿一覧が置かれており、それを見て、下宿探しを始めた。相棒は経済学部に入学した高校同期のY君、2人共に横浜は初めてである。まずは歩いて通える立野近辺を捜したが、適当な下宿はなかなか見つからない。「ならば少し範囲を広げてみよう」と地図を買い、市内見学も兼ねて当時市内を縦横に走っていた市電に乗ってあちこちを巡った。その中に手ごろな価格の学生下宿を発見、早速訪ねてみたところ、それはなんと崩壊寸前のオンボロ木造家屋だった。さすがに「学生相手だと言ってバカにしている」と怒り、学生課に文句を言ったら、「その一帯は国電桜木町駅から南下し、磯子駅を経て大船駅まで伸びる根岸線(*1) の建設予定地になっている。どうも高額の補償金を得るための偽装工作らしい」との返答だった。「そこまでわかっているなら、何故学生に紹介するんだ !」と大いに立腹したものである。
 
脚注(*1) 根岸線のこの区間は、東京オリンピック開催年の1964年5月19日に桜木町駅~磯子駅(7.5km)が延伸され開業した。土地買収から鉄道開通まで約6年掛かったことになる。ちなみに、終点の大船までの全線開通は1973年4月9日だった。」

 また、ベッド付きの洋間のある「学生下宿」と称する物件を紹介され、行ってみた。それまでベッド生活は未経験だったから興味深く、大いに乗り気になって訪問したのだが、見てびっくり。建物内には内装がオールピンクに塗られた洋間がずらりと並び、巨大なダブルベットがでんと置かれていた。あまりにもどぎつい配色にビビったら、同行の友曰く、「これは【米兵相手の連れ込み宿だ】」。この年はいわゆる「赤線地帯
(*2)」が正式に廃止された年であり、関連業者の転業対策の一環だったのである。  
 また、下宿探索の際、市内のあちこちに米軍人の住宅
(*3)が目立ち、非常に驚いた覚えもある。

脚注(*2) 売春防止法の施行は1957年(昭32)4月1日だったが、1年間の猶予が与えられ、完全施行は翌1958年(昭33)4月1日だった。」

脚注(*3) その時は敗戦後12年が経過していたが、横浜はまだ米国の占領状態ともいえる状況を呈していた。岡田 岩大先輩(造船22卒年)の記録には「敗戦直後(昭20)には伊勢崎町の焼け跡に米軍の小型飛行機用の発着場があり、小型機が離着陸していた」との記述がある。私の入学時(1958年)にはさすがにそれはなかったが、いったいいつまで存在していたのだろうか ? 当時の横浜市内には米軍用の横浜ノースドックをはじめとする港湾施設が存在し、山下公園や旧根岸競馬場地区などが米軍人・軍属のための専用住宅地として接収され、使用されていた。私もある時、近隣散策時にうっかり米軍の住宅地に入り込んでしまい、守衛に誰何された苦い思い出もある。これらの港湾施設・住宅地の中にはその後一部が返還されたものもあるが、大部分は戦後75年にもなる現在も米軍により継続使用されている。」

 入学後、体育の授業で担当教官から聞いた話であるが、私たちの入学の前年までは、体育の授業は実技だけでなく、学生への性病予防のための座学まであったという。学内に被害者がいたかどうかの説明はなかったが、大学生ともなれば成年に達していなくても酒・タバコはおろか、そちらの方面でも大人扱いされていたためであろう。入学直後に見たくも聞きたくもない社会の一面に出くわしたわけである。

 本題に戻り、下宿探しに関してだが、最終的に学生課に泣きついたら、「男子中学生と部屋を共用し、家庭教師もする」という条件で、すぐ近くの家庭を紹介してもらい、そこに落ち着くことにした。家族の一員として朝晩の食事はもちろん、弁当まで作ってもらえるという、ある意味では非常に恵まれた環境ではあった。が、プライバシーがまったくなく、その点ではいろいろと辛い思いを経験することになった。 ここには半年間お世話になり、その後弘明寺近くの下宿屋に引っ越した。
 ここは勤め人ばかりで、話し相手はおらず仲間もできず、辛いことも多々あったが、この頃思い掛けなくも同郷の大先輩に会うことができ、「年度が替わる際に入寮のチャンスがあるから、それを待つように」とのうれしい情報を頂き、小躍りしてその好機を待つことにした。

§5 念願かなって2年時の4月に入寮

  2学年になって無事弘南寮に入れていただき、さすがにホッとした。が、同時入寮者の中には地方出身者だけではなく東京在住者もおり、これにはたいへん驚いた。当人に尋ねると、「通学時間が長過ぎて学業に支障が生ずるおそれあり」と説明したという。入寮基準は経済的困窮度だとばかり思い込んでいたのだが、実際には通学時間や部活における人間関係も加味して判断するという融通性・人間味に富むものだったわけである。
  さて、引っ越し荷物は教科書類の他、衣類と布団など身の回りの最小限のもののみだったが、かさばる布団もあり、さてどうしたものか ? 当時はもちろん宅急便などはなし。入学時には広島から鉄道小荷物扱いで送ったわけだが、弘南寮付近には国鉄は走っていないし・・・ 思い付いたのが国大の自動車部。ここは夏休みには毎年夏休みに北海道一周ドライブ
(*4) に行く習わしがあり、興味深く感じて話を聞きに行ったこともあったので、それを思い出してノコノコと出向いたわけである。幸いにも部員はたいへん好意的であり、早速運んでもらうことができ、これはありがたかった。

脚注(*4) 前述の「北海道一周ドライブ」だが、現在のような快適な高速道をスポーツカーで駆け抜けるというイメージはもちろんなく、実情は自動車会社や石油会社からトラックやガソリン・潤滑油などの提供を受け、北海道内の砂利道・泥濘路をひた走る性能試験・耐久試験のようなものだったらしい。結局自動車部には入部しなかったものの、北海道行きの夢は叶えられた。すなわち、3年時の函館・札幌・帯広・釧路を巡るグリークラブ北海道演奏旅行に参加できたし、さらに4年時9月には北海道大学で開催された触媒討論会(化学分野の研究発表会)で先輩の研究講演を聴くために卒研仲間と初参加し実現できたのである。さらに退官後には北海道に転職し、憧れの札幌に住んで既に四半世紀になった。

 自動車部の部室兼車庫兼整備工場は工学部本館の裏手にあり、そこには歴代の学長専用車だったという黒塗りの大型米車と中古国産トラックが並び、共に整備中だった。当時の日本の自動車製造技術
(*5)はまだ高くなく、性能も乗りごこちもよくなかったし、自動車が疾走するはずの道路も、東京はともかく、地方では国道でさえ「未舗装の狭い砂利道」というのが当たり前の時代だった。

脚注(*5) 1950年6月に勃発した朝鮮動乱では、千ドルカーと称する軍用輸送車が日本で大量生産され米軍に納入されていたが、当時の我が国は「自動車工業不要論」さえあった時代でもあった。 ただ、乗用車に関しては、朝日新聞が企画・実施した、当時の国産最高級車であるトヨペット・クラウン・デラックスによる「ロンドン-東京5万キロ国産車ドライブ」(1956.4~12.30)が大成功し、国民の拍手・喝采を受けていた。さらにその前年の1955年5月には、当時の通産省が独のフォルクスワーゲン・ビートルをお手本にした国民車構想を打ち上げており、それを受けて、スバル360・スズライトTL・マツダ360クーペ・三菱ミニカ・ダイハツフェローなどの軽自動車ブームにつながっていった。」

§6 「築15年」だった弘南寮

 さて、弘南寮は木造2階建ての居住棟と食堂のある厚生別棟よりなっていた。隣接して同規格の2棟の居住棟があり、これは横浜市の太平洋戦争による戦災被害者用家族宿舎として使われていた。元々は追浜にあった旧海軍の軍需工場に通う女子挺身隊(*6) のために建設された建物だったものを国大工学部の前身である横浜工高の生徒課長だった渾大坊先生のご尽力により譲渡してもらったものという。なお、これも岡田 岩大先輩(22年造船)から得た貴重な情報である。私にはとても古そうに見えたが、敗戦直前の建設なら、私の入寮当時でも「築15年」、そんなに古いわけではなかったことになる。寮の厚生施設などについては、「弘南寮の想い出Ⅱ」に詳述したのでそちらをご覧いただきたい。

脚注(*6) 女子挺身隊とは大日本帝国が第二次世界大戦大戦中の1944年8月に創設した勤労奉仕団体の一つであり、主として未婚女性によって構成されており、工場などで勤労労働に従事していたという。金沢八景駅付近には軍関係の施設や工場がたくさんあり、そこで働いていたのだろう。そう言えは、金沢区野島町には軍需工場ではないが、海軍戦闘機用のコンクリート製巨大な掩蔽壕があったのを記憶している。これは空襲から戦闘機を守るための強固で巨大な格納庫である。これは戦争遺跡として今も保存されている由。」           


§7 寮生は工学部の6学科からの約40名

  私が入学したのは化学工業科で、1958年(S33)4月のことである。当時の工学部は、「化学工業科」とその兄弟分の「電気化学科」及び「機械工学科」「造船工学科」「電気工学科」と「建築工学科」の6学科から構成されており、さらに「化学工業科」「機械工学科」には5年制の夜間部もあり、それぞれに何人かの在寮生がおられた。かつては経済学部の寮生もおられたそうだが、今回改めて卒寮者を調べた結果、昭和22~64年の42年間の全卒寮者427名中、10名がおられたことが判明した。その他、1958年度に金属工学科が新設されたが、学科設立手続きが遅れ、他学科より1カ月遅れの5月入学となり、この年度には同科からの新入寮生はいなかった。


§8 楽しかった寮生活

 40名余の若人が集まる寮生活はなかなか楽しかった。新入寮生は1年生が主だったが、私のように2年時の4月入寮生や、年度途中からのより高学年生の入寮生もいた。ということは退寮者も結構いた計算になるが、申し訳ないことに退寮者に関してはまったく記憶になく、卒寮者リストにも記録がない。
 新入寮生は1・2階の中庭に面した6畳間に1学年上の先輩との相部屋だった。先輩たちから順に譲り受けた机や本棚を部屋の隅に置き、上級生は奥の3畳分を、下級生は入り口部分の3畳分をそれぞれ使用した。この地区は結構風が強い日が多く、1階の居室では掃いても掃いても飛んできた砂で畳はざらつき、閉口したものである。入寮2年目になると新入寮生との共同生活となり、寮の伝統を伝えていく立場となった。4年生になると4畳半の個室住まいに昇格。ここは食堂棟に面した日当たりの良い部屋であり、半間四方の出入り口と1間幅の押入れ付きだった。3年間下級生の面倒を見たご褒美だったのだろう。廊下への出入り口と押入れ上部の幅1間半の空間は土壁で仕切られていたが、それを壊してロフトのようなベッドスペースに改造した寮生もいた。それぞれが独自の工夫を凝らしてより快適な空間を求めていたのだろう。そういえば、数年に一度という畳替えもあった。これはありがたかったなぁ。
 入寮コンパ・寮祭・追い出しコンパなど、それに寮祭やその後の稱名寺への深夜マラソン等々、寮の裏山から六国峠を経て鎌倉へまでのハイキングや三浦半島先端への合ハイなど忘れ難き思い出がいっぱいである。これらは皆さん方が既に記してくださっており、多数の写真もあるため、そちらを参照されたい。


§9 いろいろなアルバイト

  寮生のほとんどは育英会の奨学金とバイト頼みの苦しい生活だった。バイトは今のように多種多様な選択肢があったわけではなく、ほとんどが家庭教師のアルバイトだったが、「工学部生は1年生のバイトは学業に支障があるから」と何度行っても学生課はいつもけんもほろろの対応だった。切羽詰まって学科の主任教授に緊急バイト紹介をお願いに行ったこともあった。主任教授は快くかつての教え子を紹介してくださり、真っ黒の「タイガーの手回し計算機」の貸与を受けて膨大な計算をやり遂げ一息ついたこともあった。心優しく面倒見の良かった主任教授と先輩に改めて深謝。
 学生課には2年生になってやっと家庭教師のバイトを紹介してもらえた。週2回、おいしい夕食付きだった。教え甲斐のある中学生でもあり、暖かい家庭の雰囲気共々楽しいアルバイトではあった。が、父君の転勤により1年弱で終了。やむなく、友人に横須賀の中学生のための私塾を紹介してもらって毎週土曜日の午後から夜まで数学を教えたこともあった。なんとか4年間を乗り切ることができたのはこのようなバイト経験と共に、寮で生活を共にし、悩みも楽しみも共有してきた寮生活のおかげだったと今も感謝している。


§10 おわりに

 書いているうちに若き日々の出来事が、それも忘れてしまったはずのことまで、なぜか次々と脳裏に浮かぶ。また折を見て続編を書きたいと願っている。◎続く