弘南寮の想い出Ⅱ   荒木道郎(37卒)

荒木道郎:横浜国大工学部化学工業科卒 在寮期間:昭和34年4月~37年3月

§1 はじめに

 「弘南寮の想い出Ⅰ」については、2018.11.20掲載の「弘南寮会総会に初参加の感想」にその一部を綴った。その後、当HPを改めて開き、皆さん提供の記録や随想、さらに多くの写真をじっくりと見せていただいた。その結果、新たに思い出したことも多々あり、皆さんの想い出と重複しない話題について、それもなるべく定量的に記述したいと考え、記憶を辿りながら、また各種資料を参照しながら書いてみた。
 私は化学工業科(現応用化学科) 2年次の進級時(昭34.4)に入寮し、卒業時(昭37.3)までの3年間弘南寮にお世話になった。その後東大大学院に進学し本郷に通うことになったが、奨学金が得られるまでの半年間、寮長やおじちゃん・おばちゃんをはじめ寮生の皆さんの暖かいご配慮を得て食堂奥の隠れ部屋に潜んでいたのは以前記した通り。結局3年半、お世話になったわけである。
 その間、ゲルピンにこそ悩まされたものの、健康上の不安もほとんどなく、無事に国大を卒業でき、念願の学究生活も無事終えることができた。現在は元気でハッピーな老後を送っているが、これはおじちゃんおばちゃんをはじめ、共に青春時代を過ごした皆さんのおかげであると改めて感謝している。

§2 飯沼夫妻について

 私の在寮期間中の寮父母はもちろん飯沼夫妻だった。私たちは親しみを込めて「おじちゃん」「おばちゃん」と呼んでいた。当時「おじちゃん」は清水ヶ丘にあった経済学部に勤務しておられ、炊事は主として「おばちゃん」が担当をされていたようだった。
 食堂の出入り口には「飯沼政雄」と記された表札が掲げられていたのを今でも思い出す。表札は玄関に掲げるものだから、食堂の出入り口はもちろん飯沼家の玄関でもあったわけである。そのため、「おじちゃん」のお名前が政雄であるのは当時からよく認識していたわけだが、「おばちゃん」のお名前は記憶になく、ずっと申し訳なく思っていた。今回この手記を記すに当たり改めて調べたところ、「利子さん」であることがわかった。「ごめんね、おばちゃん !!!」
 私の在寮時には、増減はあったものの各学年約10名の寮生がおり、少なくても40名の常時腹を空かせた若人が居住していた。毎日2回の食事作りはたいへんだっただろう。私の入寮時にはすでに麦飯ではなく米飯だった。これは2年先輩の高石寮長の時に決断された由。一人米1合(約180cc)分として160g、40人分では米だけでも6.4kgの重さとなる。これを研いでお釜で炊くわけだが、洗米だけでも重労働である。厨房にはガス台はなく、かまどが設置されていたように思うが、そうすると薪とか廃木材の調達も必要不可欠である。これも「おじちゃん」「おばちゃん」の仕事だったはずだが、物資のない時代にその確保にもたいへんなご苦労があったことだろう。お二人には子供さんがおられなかったが、その分私たち寮生の面倒をよく見てくださったのだと改めて感謝である。
 当時米の配給制が完全には廃止されてはおらず、学食ではまったく不要だったが、街の食堂でご飯を食べる際には外食券が必要な店もあり、工学部前には外食兼食堂と称する食堂もあった。ここでは一食25円の「一什一飯」を外食券を持参すると10円割引の15円で食べられた。別途注文するおかずは納豆や煮魚をはじめいろいろあったが、最も高価だったのが70円のとんかつであり、貧乏学生には高嶺の花のおかずではあった。
 奨学金として日本育英会の奨学金を貸与されており、月額2000円が貸与されていた。3年になった時点でこれは3000円に増額され、大いに助かった。私はこれをそのまま寮の諸経費として支払っていたからである。正確に言えばこれは食費分と大学に納める寮費との合計額であったが、そのほとんどが食費に回っていたのだと思う。それにしても食費は1日100円にも満たない少額であり、この少ない費用で寮生に満腹感を味わわせ、栄養バランスも考えた食事を毎日作るのはおじちゃん・おばちゃんにとって悩ましい課題だったことだろう。寮の周りの空き地を活用して芋や野菜を植えてはその一助にしてくださっていたとの記述が先輩の手記に残されている。当時はまったく気が付かなかったとはいえ、おじちゃん・おばちゃんのありがたい配慮にはまさに頭が下がる。
 近所の女の人が炊事手伝いのアルバイトで来ておられたと聞いたことがあった。昭34..4の入寮コンバの記念写真におばちゃんの傍らに写っている人がそうだろうと思われる。その後、寮生の栄養管理と炊事手伝いを兼ねてバイトの女子短大生(相模栄養短大生)が来寮していた。彼女たちもコンパ時などの記念写真に寮生と共に写っている。

§3 弘南寮の諸施設

 寮の建物の中央を走る廊下を挟んで南側に四畳半の個室が、北側には六畳の二人部屋が、それぞれ十数室連続して並んでいた。寮の定員は40名、当時国大には大学院はなかった(昭38.4開設)から、各学年約10名、1~3年生は6畳の二人部屋に入居し、4年生になると陽当たりのよい南側の四畳半の個室に移るという慣習だった。元来は工学部寮のため、昭34以降は全員が工学部生だったが、過去には経済学部の名物先輩が何人もおられた由。
 一階の東端には洗面所兼洗濯場があった。コンクリート製の洗濯槽の手前部分が凹凸のついた斜面状になっており、洗濯石鹸を洗濯物に手でこすりつけて洗う方式だったが、夏はともかく、冷水を使わざるを得ない冬場はとくにたいへんだった。 ある時、ここに電気洗濯機が設置された。その時期は私が3年生に進級した昭35春だとずっと思っていたが、その時点では卒寮されていたはずの塩谷先輩が「電気洗濯機があって助かった」と書いておられるため、正しくはその前年(昭34)のことだったらしい。これは電機メーカーに就職されたある先輩に最新の洗濯機を斡旋していただいたと聞いている。全員が大助かりしたのだが、実は脱水装置に大問題が発生した。というのも、当時の洗濯機は遠心脱水式ではなく、手動ローラー式だったのである。2本のローラーの間に濡れた洗濯物を挟んで脱水機のハンドルを回すと、脱水される仕組みである。が、力溢れる若人が力任せに回すものだから、直しても直してもすぐまた壊れてしまうのである。メーカーではこんな事態は想定していなかったのに相違ないが、脱水機を除けばこの洗濯機は大活躍してくれた。
 洗面所兼洗濯場の向かいはご婦人専用個室が数室並んでいた。男子寮というのに婦人用個室というのはなんとも妙ではあるが、元来が女子挺身隊の寮だったわけだから、男子専用小便器がまったく設置されていなかったということである。そのため寮生は寮開設時から昭35までの14年間、不便を余儀なくされていた。しかし、これには何とか対処できるため、そのまま放置されたままだった。昭35になってやっと改造工事が始まった。改造は一部の便器を大から小に変更するものであり、水洗式への大改造ではなかったが、学生部から依頼を受けた小野博幸寮長(37年卒、機械工学科)が悪臭に満ちた個室内で巻き尺片手に大奮闘されていたのを思い出す。当時はこれも寮長の仕事だったようであり、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 寮にテレビが登場したのは37年卒の私たちが卒業直後(昭37)の4月だと思う。2階の東端にあった娯楽室に設置されたと聞いているが、食堂奥の隠れ小部屋に潜んでいた私は残念ながら一度も見に行ったことはなく、皆さんが楽しんでおられる様子も観察したこともない。

§4 寮生活

 食堂のある別棟には飯沼夫妻の居住スペースがあり、その前の土間部分は厨房となっていた。寮生の居住棟に面した北側は板張りの食堂となっており、窓側や壁際には細長い食卓用の机が置かれていた。全寮生が同時に食事をする機会はそんなにたびたびはなかったが、朝の混雑時には不十分だった。中央部には卓球台が置かれており、常時ネットが張られたままの状態で、それがそのまま食卓(?)として使われていた。そのため、夕食時には「自分が食事を終えたから」と称して直ちに卓球を始める声の大きい寮生もいたから、まだ食事中の寮生の食器にピンポン玉が飛び込む珍事もしばしばあり、けんかになりそうになったことも何度もあった。
 食堂入口のすぐ左の壁には大きな黒板が設置されており、連絡事項やら注意事項などが記されていた。時々「盗食禁止」と書かれることもあった。「盗食」とは他人の食事を無断で食べてしまうことであるが、当時は、「終電後10分が過ぎれば、他人の夕食が残っている場合には、勝手に処分(?)してもいい」との不文律があったのだ。お互いに顔見知りの仲だけに、する側もされる可能性のある側もお互いにフライイングしないようにまたされないようにと気を配っているはずだったが、実際にはよく発生したらしく、それが「盗食禁止」と大書されることになったわけである。
 電熱ヒーターという調理用具があった。自室でこっそり調理可能ではあったものの、インスタントラーメンも電気冷蔵庫もまだ市販されておらず、それ以上に「食材そのものがない」という時代でもあった。実家から送られてきた餅をこの電熱ヒーターで焼いて他の寮生に振る舞ったという話も聞いたことがある。
 新聞は寮として購読していた。一般の全国紙、それもおそらく朝日一紙のみだったと思う。国大はやはり地元民だけではなく全国規模から学生の集まっている一流大学だったんだと改めて感じた覚えもある。一方で神奈川新聞とか東京タイムズなどの地元紙はまったく購読しておらず、テレビのない時代でもあり、ローカルニュースが入手できず、地元に愛着がわきにくい状態だったのは否めなかった。

§5 寮歌・学生歌・応援歌など

 我が弘南寮の寮歌(*)は♪流るる雲に行く水に 紅深き木群(こむら)にも・・・♪と始まる寮OBの国広理朗先輩(24年造船)作詞・石井春男先輩(22年機械)作曲の、秋の夜にしみじみと飲みながら歌える、まさに情緒たっぷりのすばらしい寮歌である。私は4番の♪紫煙る曙の 露もしとどの下草を・・・♪が一番好きである。【*:弘南寮歌歌集「歌おう青春の歌を! 歌おう 弘陵の歌を!」 柳田圭一先輩編集(33年造船)】
 ちなみに工学部には第一寮・第二寮・第三寮もあった。私は訪問したこともなく、寮生もその場所もまったく知らないままだった。ただ、寮祭時などではお互いに交流があったらしく、その際には寮歌の交換もあったと聞いたことがある。ただ、他の寮の寮歌はいずれも体育会系の元気いっぱいの歌であり、弘南寮生には「まるでラジオ体操のようだ」と不評だった。そう言えば、他の寮には、「弘南寮」のように別称もあったのかな?  この弘南寮歌歌集には、この寮歌の 他に(2)横浜高等工業学校校歌・(3)横浜国立大学学生歌と共に、(4)横浜高工応援歌(第1~4)が掲載されており、(2)と(3)の校歌には楽譜も添えてある。寮歌以外の3曲はいずれも「弘陵造船航空会会員名簿(第25版)」にそれらの歌詞が掲載されている。
 ちなみに(2)の横浜高等工業学校 校歌は♫荒城の月♫の作詞者として名高い土井晩翠の作詞であり、♫雪の降る街を月♫の作曲者として高名の作曲家・中田喜直の父の中田章による作曲である。七五調でイ長調の4/4拍子の校歌らしい校歌である。(3)の横浜国立大学学生歌は昭和31年に制定された新しい学生歌であり、作曲者は故あって昭31から6年間も弘南寮の住人だった「古き良き時代の不思議な天才」こと大根田とおる氏(侖の字にしんにゅう)(昭37卒 機械工学)であり、作詞は鶴若英子さん(昭34年、学芸学部英語科)の手によるものであった。数年前にこの♫見晴るかす あの海原に・・・・・♫というこの学生歌が長い間親しまれそして歌い継がれたことを記念する講演会が大学で開かれ、大根田氏と鶴若さんの話もあったという。うれしいことである。
 寮で歌った歌で印象的だった歌は入寮歓迎コンパや追い出しコンパなどでさんざん酔っぱらった挙句に歌われたある「数え歌」だった。♫一つ出たホイのヨサホイノサッサ♫ という前奏で始まる歌詞は発禁ものであるからここにはとても記すわけにはいかないが、夜も更けて宴もたけなわとなると、自然発生的にこの歌が始まるのである。先輩たちは飲み干して空になった合成酒の一升瓶の首を両手でつかんで股間にあてがい、それを振り回しながら中腰姿勢で歌いながら舞い踊るのである。「ああっ、これこそ伝統的な寮の飲み会なんだ」と思いながらも、あっけにとられたものである。この種の歌は他にもあったと思うが、それらは忘却の彼方である。
 この「数え歌」は非常に日本的であり、とくにそのメロディーは、何故か郷愁を覚えさせる。実はずっと長い間忘れていたのになぜか突然思い出したので楽譜にしてみた。その結果、これは日本古来の「ヨナ抜き音階」の歌に相当することがわかった。  ご存知の方も多いと思うが、西洋音楽では、音階は♫ド レ ミ ファ ソ ラ シ ド♫と1オクターブは8音からなるが、こちらは♫ドレ ミ ソ ラ ド♫と1オクターブにたった6音しかない。西洋音楽で4番目のファの音と7番目のシの音がなく、そのため四音と七音抜き、すなわち「ヨナ抜き」の音階というわけである。確かにこの音階は日本人にはなじみが深く受け入れやすい。身近な例としては、♫富士の高嶺に降る雪も♫と歌うお座敷小唄や「北国の春」がそれであり、「赤とんぼ」もこのヨナ抜きの音階を持つ歌である。驚くべきことに、実は国歌の「君が代」もそうである。異国の地で「君が代」を聴くと、誰もがつい涙っぽくなるのはそのせいかもしれない。
 余談だが、スコットランド民謡の「蛍の光」や讃美歌の”Amazing Grace”もそうであり、いずれも日本人が非常に親しみを持って歌っている音階であり、メロディーである。

§6 おわりに

 書き始めると、若き日のいろいろな出来事が連鎖反応的に想い起されるが、ある意味では切りがないため、今日のところはこれでいったん筆をおくことにしよう。 ここまで読んでくださり、大感謝です。

                              (続)