国大グリークラブの想い出

         とくに1960年夏の北海道演奏旅行について

                    荒木道郎(37応化)


1 はじめに

 国大入学時のクラブオリエンテーション時に初めてグリーの演奏を聴き、男声特有の重厚なハーモーにすっかり魅せられて入部を決めた。時は 1958年( S33 ) 4月。
 弘明寺キャンバスの古い体育館での週2回の練習に加え、葉山での強化合宿もあった。関学グリーとの交歓演奏会や県立音楽堂神田の共立講堂における定期演奏会には毎年出演した。
 グリーの思い出の歌には「月光とピエロ」や「遥かな友に」があり、多くの黒人霊歌もあった。津川主ー先生に編曲をお願いした歌劇・タンホイザーの「巡礼の合唱」や全日本合唱コンクール関東地区大会で早大グリーに敗れ悔し涙を流した「両国」も思い出深い。
 私がグリーで歌っていた頃( 1 9 58.4 ~ 1 9 6 2.3 )の常任指揮者は合唱界の重鎮だった山根ー夫先生、顧問は受験英語ラジオ講座で有名だった沢崎九ニ三教授(経済)。グリーの実質的な運営は3年生に一任されており、私たちの世代の学生指揮者は藤野勇兄(経済)、パートリーダーは金城唯夫(経済)・谷尾秀実(経済)・関山隆弘(経営)・伊藤義正(経済)の諸兄。総務マネージャーは今井常世兄(工)であり、北海道演奏旅行の総責任者でもあった。 豊富な話題に加え、酒もたばこも何でもござれの種村常昭兄は練習後の山根先生の接待担当、「バイト代はすべて接待に消えちゃったよ」とよくボヤいていた。他のマネージャーには昇司郎・渡辺稔浩諸兄もいた。私は楽譜係。当時楽譜はほとんど市販されておらず、コピー機もまだなく、古い楽譜をガリ版で印刷し、配布・管理するのが主な役目だった 。

 年間行事の中で思い出深いのはやはり演奏旅行だ。ここでは1960年夏の北海道演奏旅行とその前年の北陸演奏旅行を記す。半世紀以上も昔の話故、記憶はおぼろげではあるが、それもまた一興、「我らが青春の一頁」としてお読みくだされば幸いである。


2 北海道への演奏旅行( 1960.7.19 ~ 28 )

2.1 宇都宮から釧路まで9泊10日の大演奏旅行

 時は1960年(S35 )夏。北海道各地で歌い、大自然に触れることは若いグリーメンにとって大きな魅力だった。7月19日(火)に横浜を出発後、栃木県宇都宮市と山形県内3都市4会場で、北海道に渡ってからは函館・札幌・帯広釧路の4都市で歌うという日程。すなわち1 0日間に9回の演奏会が行われ、その他に道内各地での刑務所慰問演奏やNHK地方放送局での収録演奏もあった。
 若さ溢れる合唱団とは言え、心身共に辛く厳しい演奏旅行だったはすだが、苦しかった記憶はほとんどない。旅行中の宿と食事は約束されていたが、最終日の打ち上げ以外の飲酒は厳禁という一見団体旅行のようだったが、切符だけは解散後の観光ルートに合わせて各自が購入することになっていた。
 演奏旅行用プログラムには【A】【B】【C】の3 種が併記されていた。国大グリーだけが出演する7回の演奏会では【A】が、札学大グリークラブと共演した札幌では【B】が、帯広市民合唱団に賛助出演していただいた帯広では【C】が、それぞれ用いられた。

 

2.2 第一日目は宇都宮で

 7月19日(火)夕刻の宇都宮市栃木会館での演奏会が旅の幕開けだった。宇都宮在住在勤のグリー0B諸兄の熱心な勧誘と協力があって当地が選ばれた由。
 こではまず北原白秋詩/多田武彦曲の合唱組曲『月夜孟宗の図』から、「竹林幽居」「月夜孟宗の図」「竹に交りて」「あてのない消息」「もくせい」の全5曲が歌われた。そのしみじみとしたメロディーは今すぐにでもハモれそうな懐かしいものである。草野心平詩/南弘明曲の『蛙の歌』という本格的な合唱組曲に続き、お得意の黒人霊 歌ステージでは「だれも知らぬ我が悩み」に「深き河」などを、世界の民謡ステージでは「ヴォルガの舟歌」や「草競馬」などを、日本の童謡ステージでは「叱られて」や「赤い靴」などを、愛唱歌ステージでは「死と乙女」や「ピエロの嘆き」など合計6ステージで 29曲を歌った。アンコールを入れればなんと3 0曲を越す大サービス振りである。
 しかし、地元の0B諸兄には申し訳ないが、栃木会館ではどんな評判だったのか、どんな歓迎を受けたのかなどについては記憶にない。そう言えば、横浜で結団式や出発式をやった覚えもない。宇都宮は横浜からさほど遠くないから、現地集合だったのかもしれない。私はそこで点呼係を仰せつかり、真夏の強い日差しの下で大声を挙げていたことだけは覚えている。
 

2.3 山形大・鶴岡南高・酒田市立第三中と第四中で歌う

 翌20日(水)の夕刻には山形大学教育学部の講堂で、 21日(木)の夕刻には鶴岡南高校の講堂で、22日(金) の午前と午後は酒田市立弟四中学校と第三中学校で歌った。プログラムはいずれも宇都宮と同じ【A】だった。金城兄のテノールソロやヴォイストレーナーの田中清隆氏のバリトンソロも歌われたはずだが、アンコール曲だったのか記録には残っていない。山形大では大学生同士の交流もあったはずだが、すべては忘却の彼方である。
 酒田ではハプニング第一号発生、セカンドの一団 員が体調を崩したのだ。旅行直前までバスケット部のサブマネージャーとして多忙だったらしく、急遽担ぎ込んた医院で過労による風邪との診断が下された。もちろん翌日からの団体行動は無理であり、弘南寮で同じ釜の飯を食べていた私が介護要員として指名された。

2.4 函館へ向かう

 酒田を出発した一行は青函連絡船で津軽海峡を渡り函館に向かったとばかり思い込んでいた。が、弘前や青森でも歌ったとのこと。ただ、酒田~弘前~ 青森は鉄路で約300kmもあり、当時の交通事情を考えると、移動日に2都市での演奏会開催は不可能とも思える。これは列車の乗換や待ち時間を活用した駅頭やプラットホームでの自然発生的なパフォーマンスだったのかも知れない。
 青函トンネルなどまだなかった当時、津軽海峡を渡るには青函連絡船が常だった。鉄道オンリーの旅から一変してロマンチックな船での渡峡ともなれば、若きグリーメンの心はさぞ高揚したことだろう。船上では滋賀県長浜の女子短大生たちと知り合い、親しく話を交わしたり写真を撮り合ったりもあったらしいし、さらに釧路解散後に帰途の十和田湖畔の宿でも再会し、その後も交流を続けたラッキーボーイもいたという。だれかが田中清隆兄が歌う「ジョリーシャッポ」でもかぶっていたのかも知れないな。

2.5 函館では前代未聞の「無聴衆演奏会」

 函館演奏会は23日(土)午後6時半からHBCラジオ劇場で行われるはずだった。ところがここで「聴衆ゼロ」というグリー始まって以来の一大椿事が勃発したのだ。
 「その年は国大グリーと同様、早大グリーも函館をはじめ全道各地で公演」との情報を入手した今井兄は業務委託先の音楽事務所と綿密な事前打ち合わせを行い、会場も確保した。が、想像だにしなかった事務所の内部抗争発生のため開催準備がまったく行われておらず、それも到着後に初めて知らされたという。無責任極まりない背信行為であり、契約違反でもある。裁判沙汰にして違約金や慰謝料を払ってもらう話でもあっただろうが、会場だけは確保されていたため、「聴衆の人数の多寡で演奏に対する姿勢を変えるようなことはしたくないし、そんな合唱団だとのレッテルも貼られたくない」と考え、「無観客試合」ならぬ「無聴衆演奏会」として、数名の関係者を前に歌うという穏便な対応をとることに皆で決めたという。皆で心を込めて歌った結果、すばらしい演奏となり、大感動の演奏会になった由だが・・・

2.6 札幌では札学大グリーと共演

 置き去りにされた私たち2人はそんなことなど知らぬまま札幌でやっと本隊に追い付き、2 5日(月)の演奏会に臨んた。 ここからは飛行機で駆け付けられた山根先生の指揮だった。
 札幌は北海道学芸大学(略称:札学大、現北海道教育大学札幌分校)の札学大グリーとの共演だった。プログラムは【B】。私たちは「月夜孟宗の図」と「蛙の歌」の組曲2ステージと、「黒人霊歌」と「愛唱歌」の合計4ステージを歌った。少人数の札学大グリーは3番目の賛助出演ステージに登壇し、「からたちの花」を含む山田耕筰の6曲を学生指揮者の永井征男氏の下で歌った。
 第4ステージ目は両グリーによる合同演奏、これは今回の演奏旅行唯一の共演ステージであり、当時の男声合唱には欠くべからざる堀ロ大学詩/清水脩曲の組曲【月光とピエロ】より「秋のピエロ」と「ピエロの嘆き」をしみじみと歌い上げ、さらに草野心平詩/多田武彦曲の【組曲富士山】より「作品第肆」を声高らかに歌い、聴衆を魅了すると共に私たちも感動に酔いしれた。
 ところがまたもやハプニング発生、バリトンのパートリーダーがステージ上で突然倒れたのである。もちろん演奏は即時中断、館内放送に応じて客席から現れた若くて美人の女医さんに応急処置をしていただき、事なきを得た。連日の強行軍に加え、本番前にNHKによる収録もあり、責任感が強いが繊細な神経の持ち主である彼には心身共に辛かったのだろう。しかし、 一部始終を見ていた仲間からは「俺も倒れたかったな」との不謹慎なつぶやきも聞こえたとか・・・

2. 7 帯広での演奏会

 札幌から帯広までの鉄路はとても遠かった覚えがある。今ではJ R特急で千歳線・石勝線を経て、2時間半ほどで到達できるが、当時は函館本線を北上、滝川で根室本線に乗り換え、満員の鈍行列車に立ったまま乗り続けた辛い覚えが残る。今井兄は「打ち合わせのため列車で移動中、網棚に置かれた他人のカバンが突然頭上に落下し、しばし失神」というハプニングを話してくれたことがあったが、これは帯広行きの車中での話だった由。とんだ災難だったね。
  会場は十勝会館、開演は午後7時。賛助出演は地元の帯広市民合唱団。指揮は同合唱団の創設者で、この年に設立されたばかりの帯広合唱連盟の初代理事長を務めた田代広和氏だった。プログラムは【C】であり、同合唱団は「マザー・グース・メモリー」から、「ちっちゃなボウピイプ」や「まがりくねった男がひとり」などの混声合唱曲を歌った。
 私たちは組曲【蛙の歌】と【黒人霊歌】を、さらに 「タ焼け小焼け」や「叱られて」などの童謡や「ヴォルガの舟歌」などの外国民謡、そして「菩提樹」などのグリー愛唱歌も歌った。 ヴォイストレーナーの田中清隆兄のソロもあった。アンコールには彼の美声を活かして「コサックの子守歌」や「盗賊の歌」もあり、横浜に因む童謡「赤い靴」を歌ってくださることも多く、私たちはバックコーラスに徹して歌った。
  帯広でもNHK帯広放送局での収録があった。今井兄がNHK勤務の知人のコネをフル活用した成果であり、道内演奏地のすべてのNHK地方放送局で収録してもらったことになる。録音にはつきものの録り直しなど一切なく、非常にスムースにことは運んだが、放送日はいつだったのかなあー

2.8  釧路での演奏会

 最後の演奏地は釧路だった。釧路川の最下流部に架かる、夕陽の美しさで知られる幣舞橋(ぬさまいばし)を渡ってすぐ左手の高台にあった釧路市公民館が会場だった。賛助出演は釧路ガールスカウト合唱団にお願いした。ただ、決定時期が遅かったようで、演奏曲などは不明のままである。
  釧路公演に当たっては、今井兄と私の級友である釧路出身の安倍幹夫兄に会場手配から共演合唱団の選定に至るまで有益なアドヴァイスを受けた。趣味も同じ合唱だったが、彼は当時グリーと並ぶ有力合唱団だった民謡研究会合唱団(通称民研、混声合唱団)でベースを歌い、大活躍していた。
  グリーはアカペラ曲が多かったが、プログラムにはシューベルトの「菩提樹」や「死と乙女」のようにピアノ伴奏の歌もある。そのため学芸学部音楽科の井出さんに伴奏ピアニストとして同行していただいていた。釧路では彼女の伴奏で同級生のソプラノソロを披露するプランもあったそうだが、実現には至らなかったのは残念だった。
 それにしても、我らが信頼すべきマネージャー・今井兄の発想力や企画力には感嘆すべきものがあった。

2. 9  釧路での刑務所慰問演奏会

 釧路でも帯広同様、刑務所慰問演奏会があった。恐らく演奏会前に訪問して歌ったのだろう。高橋章夫兄から頂いた感想を以下に記す。
 体育館のような広い会場の一面にゴザが敷かれ、その上に青い囚人服をまとった100人ほどの受刑者が正座している。初めのうちは「そんな歌なんぞ聴きたくない」とばかり、みんなそっぽを向いていたが、歌い進むにつれ次第に前へと向き直り、真剣に聴き始めた。とくに幼き日に歌った童謡を耳にすると、突然娑婆を思い出したのか家族のことで胸がいっぱいになったのか、ここかしこで涙を流す姿が見受けられ、すすり泣く声さえ聴こえてきた。多感な私たちも次第に感情が高ぶり喉も詰まり、いつものようには歌えなくなってしまった。歌い終えた時には拍手が沸き起こり、思い掛けないことに「アンコール!」の声さえ挙がった。私たちも感動してその声に応えた。

2. 10  宴の後

 釧路演奏会終了後に打ち上げ会があった。演奏旅行中は私的な飲酒は厳禁だっただけに、皆さんは羽目を外して痛飲した。翌日は早朝の観光バスで摩周湖観光に出掛けたグリーメンも多く、その後はそれぞれのスケジュールに従って北海道各地に散らばって行った。
 その夜、私は数人のグリーメンと共に前述の安倍兄の実家を訪問した。獲れたての銀色に輝くおいしいイカ刺しと釧路の美酒をたっぷりとご馳走になり、その夜はみんなで泊めていただいた。が、実は安倍兄ご本人はその時点ではまだ帰省していなかったのだ。若気の至りとは言え、まったく図々しい話ではあり、その無礼さには彼の母上もさぞ驚かれたことだろう。少なくとも翌朝に母上に彼の近況などじっくりと報告すればよかったのにと今でもその愚行が悔やまれる。



3  北陸への演奏旅行 (1959.7)

3. 1 富山・金沢・福井・舞鶴公演

 話はさらに1年前の1959年7月に遡る。大学2年夏休みに北陸演奏旅行として、富山・金沢・福井と舞鶴の4都市を巡業した。もしかしたら富山の前にもどこかの街で歌ったかもしれない。指揮は山根一夫先生、学生指揮者は柳内雄一兄(工)。4名のパートリーダーも5名のマネージャーも全員が1年先輩の3年生諸兄だった。
 ただ北陸演奏旅行の詳細に関しては、北海道旅行演奏旅行とは異なり、日程表もプログラムも手元になく、演奏曲名も共演合唱団や会場さえも不明である。ただ、高橋兄によれば、富山市では大きな公民館が会場であり、持参した大学旗とグリー団旗をステージ正面の壁に掲げる高所作業をした記憶があるという。私には合同練習の際、金沢大学の合唱団員と発声練習に関して親しく話を交わした覚えがあり、金沢大学のある合唱団と共演したことだけは確からしい。
 演奏曲に関しては、恐らく半年後の1960年1月の横浜・東京の定演で歌った曲が多く含まれていると思われる。大曲では、合唱組曲【月夜孟宗の図より】を歌い、黒人霊歌は「Little Innocent Lamb」や「Deep River」があ り、世界の名曲としてはコダイの「孔雀」に「赤いサラファン」「母なるヴォルガ」などがあり、ドイツ作品集ではメンデルスゾーンの「トルコの乾杯の歌」やシューベルトの「死と乙女」や「菩提樹」もあった。

3. 2   ほろ苦い想い出

 金沢ではなにかマネジメント関連の問題が起きたらしい。この難題の解決後に当時のマネージャー数名に交じって駅前で飲んだ覚えがある。楽譜係に過ぎない私がなぜその場にいたのかは不明だが、翌日の福井公演の最中に突然腹部に不快感を感じて慌てた。幸いにも定位置がベースの最後列だったため、曲の切れ目にそっと退場し、ステージ上では醜態をさらさずに済んだ。学寮住まいだったため、寮祭やコンパなどでの飲酒にはある程度慣れてはいたものの、2年の夏休みといえば、私はまだ未成年ではあり、先輩と一緒だからといって無理に飲む必要もなかったわけだが・・・
 前述のように、旅行中は飲酒厳禁だったため、「他言無用」とのアドバイスを受けてずっと完全黙秘していた.。だが、最終日の打ち上げの席においても無言を貫いたため仲間に非難された苦い想い出が今も残る。


3. 3 舞鶴で歌った「U Boj ウ・ボイ (戦いへ)

 最終公演地は舞鶴であり、造船工学科出身のOB諸兄が打ち上げ会をセットしてくださった。社員用リクレーション施設の大広間では夜遅くまでのどんちゃん騒ぎとなり、アンコールでも歌った行進曲風の「ウ・ボイ」をOB諸兄共々声高らかに歌った。この歌は発音が非常に難しく、OB諸兄もかつて相当苦労されたらしく、暗譜するために考案したという「こじつけ歌詞」を披露してくださり、会場は爆笑の渦となった。それは江戸時代の遊女と客との対話であり、前後は失念したが、「サンモクレッセ・・・」というくだりは「(心付けを)たったの三文しかくれないの・・・」という遊女の「嘆き節」だったというのだ。
 当時チェコの歌だと伝えられたこの歌は長い間関学グリーの秘蔵歌だったが、いつの間にか国大グリーをはじめ全国の男声合唱団でも広く親しまれるようになった。関学グリーOBのご尽力によりその経緯の詳細が判明したのは1970年代後半、実はクロアチア建国の英雄・ズリンスキーをほめたたえる愛国歌だったのだ。詳しくは http://www.kg-glee.gr.jp/uboj/ubojindex.htmlを参照されたい。

4  おわりに

 後期高齢者になってすでに久しい。これは往時の演奏旅行・定期演奏会のプログラムや録音テープの偶然の発見がきっかけとなり、グリー37会メンバーのご支援を得て数年前に書き綴った小文を短縮化したものである。本質的に筆者のつたない記憶がベースになっているため、記憶違いや誤解も多々あるとは思われるが、その点はご容赦いただきたい。輝かしい青春の日々を懐かしく思い出しながら、関係諸兄に謝意を表する次第である。

5  H/Pの読者の皆さんへ
 

 長文を最後まで読んでくださり、まことにありがとうございました。実は寮生活の想い出や近況報告などを記すつもりだったのですが、まず手持ちの原稿をということで、年末に国大グリークラブOB会報に掲載していただいた小文を寄稿させていただきました。
 当時の弘南寮では、学年ごとに少なくとも一人はグリークラブ(無伴奏男声4部合唱団)のメンバーがおり、寮内で集まっては他の寮生と共に歌って楽しんでいた覚えもあります。もっとも合唱に関心のない方にとっては単なる騒音発生源に過ぎず、ご迷惑をお掛けしていたのかもしれませんね。
 なお、この小文は、昨年末(2018.12.16)に発行された横浜国立大学グリークラブOB会報第40-2号に掲載された文章をほぼそのままの形で転載したものです。快く転載を承認してくださった国大グリークラブOB会報関係者に深く感謝します。