"我が青春"弘南寮での人生初体験あれこれ。

               塩谷暢生:横浜国大工学部電気化学科卒
                      在寮期間:昭和31年4月~ 35年3月

                              18歳~ 22歳

 私は栃木県の純農村地帯出身。部落は3 0軒弱、我が家以外は農家で、当時は田では米、畑では葉たばこが主生産物。どの家にも電話もねえ、車も、テレビもねえ時代。我が家は農家ではないが、田畑が約4反、屋敷が1 0 0 0坪あるので食べ物はほぼ自給自足の生活。出身高は栃木県立大田原高校。校歌に“我らが理想質素堅実”とあるように、長髪禁止の田舎の男子校。栃木県は平成の今でも戦前の旧制中学校、女学校は殆どが男女共学となっていない。


 こんな田舎育ちが昭和3 1年、在寮生4 0名の小さな自治寮・弘南寮(工学部第四寮)に入る。入寮同期の1年生は専門6学科から各1 ~ 3名の次ぎの10名。出身や年齢はバラバラで、多分現役は2名と思う。電気化学科の同級生も同じようなもので、昭和3 5年卒の同級生は2 7名だが、現役は3 ~ 4名程度だったのではないか。当時、国立大学の入試は2期制度で、横浜国大は2期校だったためこのような傾向が強かったのだと思う。


入寮同期・・・機械/大根田(栃木県)、西沢(長野県)。電気/柴野(関西方面)。
造船/伊勢本(東京? )。建築/村上(広島県)、来間(沖縄県)、宮沢(長野県)。化工/山口(山形県)。
電化/友沢(愛媛県)、塩谷(栃木県)。

 コーヒーを飲んだこともない、北関東訛り、坊主頭の田舎っぺが初めて親元を離れての寮生活の中で、先輩、同輩、後輩に教えられ、初体験した楽しく、なっかしい思い出を振り返ってみたい。

1 .お酒とFirestorm

 酒の洗礼は入寮歓迎コンパ、いやというほど飲まされた。真夜中に叩き起こされて金沢文庫のある称名寺までマラソン。今ではとても考えられないイベントで、寮祭と送別コンパでも飲め飲めで、卑猥な歌を教えられた。
 寮祭での裸のFirestormも初体験である。寮祭では中庭に舞台を組み、演劇や歌で周囲の住民にも楽しんでもらったが、わずか40人と小人数の寮があのような豪華な寮祭をしたとは今でも信じられない気がする。当時の学生のエネルギーはすごいと思う。あのような寮祭はいつまで続いたのだろうか。
 当時は年齢に関係なく、大学生は大人と見られていたと思う。だから、酒、たばこは誰にも遠慮せず、当たり前のようにやった。
ところで、私が喜寿の2 0 1 5年、孫が東大運動会・アメリカンフットボール部( Tokyo Warriors )に入ったので歓迎コンパなどでは酒を飲むのだろうと云ったら、"とんでもない、未成年者にそんなことをしたら先輩が退学になってしまう"という。飲酒強要が当たり前の時代を過ごした私にとっては、まさに隔世の感がある。我々男性が当り前のようにやっていた事が今やharassmentという外来語でどんどん否定されてきている。
お酒の思い出を二つ。
 ーっはビール。当時は酒といえば日本酒、ビールなどは高価でとても手がでない。先輩の山本道夫さんがサッポロビールに入社し、後輩達を呼び横浜駅西口でビールをご馳走してくれたことがある。とてもうれしく、あの時のビールのうまさは6 0年経った今でも覚えている。
 もうーっは焼酎。本場鹿児島の芋焼酎で鍛えたのでどんとこいというI T君と金沢文庫で梅酒割り焼酎をガブガプ飲んだら、彼がつぶれてしまった。困って駅前交番に駆け込んだら、お巡りさんが親切にも肩を抱えて寮まで送ってくれた。ゆとりのある、のんびりした、良き時代だった。

2.加藤清彦先輩に教えてもらったキス釣りなど

寮は二人部屋で、入寮時の同室先輩が加藤清彦さん(機械科・昭和2 8年入学? )。学校よりはパチンコ屋に行っている方が多いようで、腕前はプロ並みという評判、いつの間にか大学を中退されてしまった不思議な方だった。先輩の呼び方は"さん"づけで、加藤先輩は二人いたので、それを区別するため、清彦さん、恵一さんというのが呼び名だった。寮には先輩がいばりちらすような悪習はなかった。

①海での伝馬船乗りとキス釣り
 清彦さんは何でも知っている物知りで、いろいろ経験豊富な方だった。瀬戸内海方面で育ったらしい。金沢八景(小柴:柴漁港)にボート屋があり、借りてキス釣りに連れていってくれた。船は伝馬船で、櫓でこぐ。1本の櫓でこぐのは初体験で難しかった。栃木県は海なし県、海で泳いだのは小学生時代の臨海学校が最初で最後。したがって、船で海に出るのも、釣りをするのも初体験。私は釣りよりも泳ぐ方が楽しかった。金沢文庫沖では、当時は既に海苔採取はやっていなかったが、栽培跡は残っていた。
②川でのウナギ釣り
 京浜急行線の東側に泥亀町という非常に広い湿地があり、平潟湾(金沢八景)にそそぐ川があった。清彦さんがその川で、ウナギ釣りを教えるという。しかも昼間の釣りである。私は田舎でウナギはよく釣ったが、それは昼間ではない。仕掛け針で、夜に仕掛け、早朝取りに行く方式である。普通の釣りのように、昼にウナギ釣りをするとは驚きで、初めての経験だった。釣果は覚えていない。
③パチンコ
 名人清彦さんに一度繁華街の野毛に連れていかれ、パチンコを教えてもらったが、上手くなることはなかった。

3 .加藤恵一先輩に教えてもらったギター

 昭和2 0年~ 3 0年代は映画の全盛時代、洋画も多かった。その中に「禁じられた遊び」というフランス映画があった。名ギタリスト、ナルシソ・イエぺスのギター1本で全編の音楽を構成する名画で、ギターがまた素晴らしかった。この名曲を恵一さんが時々聴かせてくれるのである。私も弾いてみたくなり、初めてギターを手にした感激は今でも新鮮である。恵一さんは多芸多才な方で、高校、大学では野球のキャッチャーを、後年には更紗をされたという。
寮生には音楽素養のすばらしい方がたくさんいた。
 同期の来間君にはウクレレでハワイアンやポップソングを聴かせてもらい、ウクレレをちょっぴり教えてもらった。彼は沖縄出身で、当時”沖縄生まれの天才少女歌手”として有名だった沢村みつこは従姉妹という。
 同期の大根田君は同じ栃木の真岡高校出身。彼が複雑な分厚い楽譜を見て何やらつぶやいているので、何をしているのかと尋ねると、オーケストラを聴いているのだというので驚いた。彼は横浜国立大学学生歌の作曲者でもある。この歌は入学した昭和3 1年の作曲だと思うのだが、卒業は昭和3 7年となっている。彼は在寮しながら、2度退学し、しかも2度とも同じ機械学科に再入学したと云われている良き時代の不思議な天才である。
 工学部の前身、横浜高等工業高校の初代校長鈴木達治は開校4年後の1924年、ドイツ・べヒシュタイン社製のE型グランドピアノを学生の課外活動用にと購入した。当時は首相官邸と東京芸大にしかない名器だが、戦後、進駐軍による接収等を経て使用できないようになっていた。
 同期の村上処直君は入学した1956年グリークラブに入ってこのピアノを知り、心を痛めたという。そして、1988年母校の教授に招かれたのを機に名器を修理する活動に取組み、 1998年復活させた。この稀代の名器は今では母校の宝になっていると聞く。
先輩の柳田圭一さん、石川嗣郎さんの朗々とした歌声で目を覚ました朝も多い。

4 .山本道夫先輩に教えてもらった囲碁

 寮では碁を打っている方が多かった。とくに山本さんが上手で、初心者にも親切に教えてくれた。同期の山口君や宮沢君、来間君などともよく打った。山口君は九大医学部に入り直して今は山形県でお医者さんをやっているが、5 ~ 6段くらいの実力者らしい。私は卒業後も結婚するまでの5年間くらいは熱中し、初段格として損害保険業界の対抗試合に選手として出たこともある。今は碁を打っことはなく、テレビ観戦を楽しんでいる。

 ところで、昔は寮で覚えた囲碁を授業で教える大学が増えているという。日本棋院が2005 年、東大で初めて開講し、2018年には40大学に広まっているというが、母校でもやっているのだろうか。
 なお、詰将棋をほぼ毎日やって、脳の活性化を図っている。将棋盤なしに9手詰位はだいたいできるようになった。

5 .見ているうちに覚えた麻雀

 寮では麻雀が盛んだった。見学しているうちに覚え、こんな面白いゲームはないと熱中した。大学のある弘明寺にも雀荘があったので、授業を抜け出して同級生達ともよくやった。
会社勤めをしてからもよくやった。昭和3 0年~ 4 0年代の最大の娯楽で、週2 ~ 3回は雀荘へ通った。自宅を新築した時、麻雀ができるように掘りごたつを作ったが、定年退職後は家族麻雀だけで、今でも年に1 ~ 2度は妻、子、孫達とつもっている。
 今はむしろ、インターネット(AbemaTV)で見る方を楽しんでいる。近々、プロ麻雀リーグ(Mリーグ)ができるそうだから、ますます楽しみである。

6 .各種電気製品

 田舎の生活では電気製品というのはラジオくらいだったので、何もかもが珍しかった。
①電話
 田舎では電話を一度も使ったことがなかったので、最初はかなり戸惑った。急ぎの時は電報が普通で“カネオクレタノム”の世界だった。田舎訛りが抜けないこともあって、会社に入ってからも電話は苦手だった。
②電気コンロ(電熱ヒーター)
 寮に電熱器があった。田舎では薪による直火だけだったので、便利と思った。実際には湯沸かし程度にしか使わなかったが、田舎の母がモチを送ってきた時には皆でモチ焼きした。
③電気洗濯機
 電気洗濯機があって助かった。水をしぼるのがハンドルによるローラーで、いつの間にか壊れてしまった。
④ラジオ作り
 友人と秋葉原に行って部品を買い、初めてラジオを作ったが、勉強にあまり使うことはなく、音楽を聴くことが多かった。

 当時の照明は裸電球で、電線コードは古く粗悪品が多かったため、火災になりかけたことを2度体験した。麻雀の際、暖房用にとコタッに裸電球を入れていたところ、古くなっていた綿被覆コードから火が吹き出し、天井に火が走ったのであわてて消した。もう一度は、就寝中に電気スタンドが倒れて煙りを出したことがあった。なお、寮にはまだテレビや冷蔵庫はなかった。

7 .他県出身者との交流:ヤマ(山)とは?

 同期生は生まれ育ちが違うので、話しているといろいろ教えられることや面白い発見があった。宮沢君と山について話していた時のこと、どうもかみ合わない。長野県出身の宮沢君にとってヤマとは、登山するような険しい山のこと、私は関東平野に育っているのでヤマとは、平地林をイメージして話をしているのだった。
 私の山仕事とは冬の薪作りや落葉掻き、山遊びとはキノコ取り、山芋掘りや蜂の巣取りで、いずれも家の直ぐ近くにある雑木林だった。昭和20年代末頃から動力線が村の隅々まで張られると井戸ポンプが設置されて水が豊富に得られるようになったため、これらの雑木林は開墾されて田んぼになってしまった。

8 .アルバイト

 6人兄弟妹の母子家庭で貧乏だったので、いろいろなアルバイトをしたが、最も多かったのは家庭教師とワッチマン(Watchman)である。
 最初の家庭教師は寮のおばちゃんが紹介してくれた。中学入試を目指す小学6年生男子で、近くの西柴の団地に住んでいた。当時は横須賀にあった栄光学園を目指していただけあって、頭が良かった。私の子供時代と比べ、都会では非常にレベルの高いことを勉強しているのに驚き、これでは田舎者はなかなか受験競争には勝てないなと思った。
 ワッチマンは横浜港での貨物船の荷揚げ作業等の監視で、主目的は荷揚げ作業員(いわゆる港湾労働者)の泥棒監視、徹夜のつらい仕事だったが実入りが良かった。寮生の多くもこのワッチマンをしたが、誰が斡旋していたのだろうか? この仕事で船のタラップを gangwayと呼ぶことを知り、物事は見方によって名称まで異なることを学んだ。

9 .質屋通い:借金人生の始まり

 お金に困り2 ~ 3度質屋のお世話になった。質草になるような金目のものは何も持ってないので、先輩に相談したら、何でもいいのだという。そこで、安物の目覚まし時計を持って行ったら希望通り1 0 0 0円貸してくれた。当時ラーメン一杯は3 0 ~ 4 0円だったので、今のお金では1万円くらいだろうか。横国大の寮生ということでの信用貸しで、うれしかった。金利は月9分だったと思う。
 私の初任給は14700円、これでは背広を作れないため、会社が被服融資をしていたので入社早々20000円借りた。20歳代には結婚融資、30歳代にはゴルフ会員権融資、40歳代には住宅融資と、思えば質屋は借金暮らしの始まりだった。

1 0.その他寮生活での人生初体験

①ビワの美味しかったこと
 愛媛県西条出身の野村安広君が故郷からビワを送ってきた際、ご馳走になった。初めて口にする水分が多く甘いビワの旨さに驚いた。あの食感はいまでも残っている。
②ダニに咬まれる
 寮にダニが発生したことがあった。鋏形のロで吸血するので、咬まれた後に2点の傷が残った。ダニが好むのは汚いこと・湿度があることだそうで、敷きっぱなしの万年床が多い寮は住みやすかったのだろう。室内が消毒され、我々は柱の割れ目などに目張りをした。
③通学定期券
 田舎では通学に乗り物を使うことはなかったので、金沢文庫~日ノ出町の定期券を持った時は一気に都会人になったような気がした。1年生の時は日ノ出町で下車し、桜木町からは市電で立野へ通ったが、この1年間が横浜を最も楽しんだ時のように思う。当時、関内には進駐軍のカマボコ兵舎があり、山下公園には米将校の住宅があったが、街には活気があった。伊勢佐木町で石原裕次郎の“嵐を呼ぶ男” を見たり、中華街でラーメン(一杯4 0円)を食べたり、野毛のジャズ喫茶“ちぐさ”でジャズを聴いたりと楽しい思い出いつばいである。野毛ではチンピラにからまれたこともあった。当時は定期券を使った悪さも結構盛んでした。
④ハイキング
 寮の裏山から鎌倉まで寮生達とよくハイキングした。六国峠ハイキングコースと云って、当時はコースに住宅は殆どなく、六国(伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総)を望める眺めが良かった。鎌倉では鶴岡八幡宮へ行き、義経の愛人静御前が頼朝に命じられ白拍子を舞ったという舞台に上がり遊んだように思う。
      ー田中茂利先輩の声に押されて平成30年7月ー