横浜国立大学工学部第四寮



    41年卒電工の内田洪三です。
    1962年と1963年に行われた歓迎コンパ、追い出しコンパを各一枚および、同両年に行われた寮祭の
    写真を各一枚お届けします。
    各写真の下に少しばかりのコメントも添えました。







     左から広瀬、井ノ川、渡辺、内田、宮田、小林、塩田、二人置いて、北島、石川の9人が1962年に入寮。
     おいちゃんが何をしゃべったかは記憶にないがどんぶり酒を喰らい寝かされたと思ったら号令がかかり
     称名寺往復のマラソンがあったのに驚愕。おいちゃん、おばちゃんと皆が呼ぶ意味が分ったのはその後
     時間はかからなかった。




             

     写真の裏に二部の学生を含めて11人が卆寮とある。当時の四寮の四年生先輩の方々は怖かったが、
     内田は久米さんが同郷の事もあってちょっと気が休まった。何せアルバイトで食費を稼ぐのが第一で
     あったから、先輩方の残された試験問題集が単位を取る鍵となったのを憶えている。
     物理の吉田先生、微分方程式の豊田先生なんかが大変でした。
     ああそう言えば怖くない先輩、渡辺さんも左端にいました。やっぱりこわもてのする岡部、田中先輩は
     群を抜いていましたが、実は親密感を表すテクニックが当時としても古かったのでしょうか。






     何処から誰が台本を用意されたのか知りませんが、尾藤先輩がプロンプターをやり、三年寝太郎を
     やりました。
     宮田君が寝太郎の主役、広瀬君が嫁はん役、塩田君が百姓役であとの一年生は端役でしたが、
     宮田君が地でやった感じで忘れ得ぬ出来でした。
     すぐ後で分ったのですが我々より一年先輩連中から舞台はもう止めようと言う声が寮内には
     あったとか。
     われ等は騙されて全部しきたり通りやったのですが、一年後輩の年次には舞台は演劇つきでは
     もう存在しなかったと思われます。その代わり次のようになりました。




  

      二年生、三年生が先ずフラダンス、続いて新入生が民族衣装らしきものをまとい踊りを披露。
      当時の金沢文庫駅のまん前の文進堂の店前にて。我々はこの通りの奥の右手にあったサノキンと
      言うラーメン屋によく貢いだものです。確か、ラーメン一杯が40円でした。
      舞台つくりが無くなり、演劇も消えて、このころから、バンカラ学生的なものが確実に毎年影を潜めて
      きていたと懐旧いたします。
      この写真、今見てみると、しかし、よくも恥かしくもなくフラをやったものだと。         以上です