嵐雅彦氏(昭34年電化)の銅像が台湾に建つ

山之内克彦(昭和34年機械)

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 彼は横浜国大を卒業してすぐ日本酸素(現太陽日酸)に就職しました。
1975年頃から彼と古市一雄氏(現フジテクノ会長)の四寮グループは、世界で
初めて高真空のステンレス製魔法瓶を開発し、1978年「割れないステンレス
製魔法瓶」として上市しました。上市直後は苦労したようですが、「シャトルミニ」(子供用魔法瓶)、世界初の「超軽量チタン製魔法瓶」など次々と新品種を開発し、業績を上げ、彼は廃業寸前のサーモス事業部を僅かな期間に立ち直らせました。
 1989年にはイギリス、アメリカ、カナダ等のサーモスグループを、更にはドイツまでも傘下におさめ、魔法瓶では世界でシェアートップのナンバーワン企業に育て上げました。東南アジアでは 台湾、マレーシア、中国、フィリピン等に工場を建設し、成功させました。

 彼はまたリニアーカーの超電導用冷却機構について、山梨に研究所を建設し, 山梨―東京間のリニア―カーの実験場にも貢献しました。それ等によって日本酸素の副社長にまで昇進しました。東京―名古屋間が開通するまでは頑張れと病床の彼を励ましましたが、2012年7月28日帰らぬ人になってしまいました。

 多少端折っているので、魔法瓶の沿革について補足しておきます。
1.魔法瓶の原型は1880年時代にドイツの物理学者.A.F.ヴァインホルトが真空容器を発案しました。この考えからイギリスの科学者ジェームス・ デュワーが1892年に真空の二重ガラス容器を考案しました。

2.ドイツのガラス職人ラインホルト・ブルガーが、ガラス製の真空ボトルを、保護用の金属製ケースで覆うことを考案しました。1903年パテントをとって、1904年彼はテルモス有限会社を設立して、ガラス製魔法瓶を製作開始しました。

3.魔法瓶は世界中に売れましたが、良く割れました。そこで嵐氏は割れない画期的な高真空ステンレス魔法瓶を開発することに着眼しました。
そして嵐氏は難しかったステンレスの薄板の溶接に関して、溶接技術に知見の高かった同じ四寮の古市氏に協力を求めました。この四寮の絆なくして高真空ステンレス製魔法瓶は生まれなかったと言っても過言ではありません。

4.1987年嵐氏は台湾の林文雄氏と合弁で、初の海外生産拠点を台湾に設立しました

5.現在ではサーモスグループの生産数量は年間6000万本にも及ぶと聞いています。 私は35年前中国に行きましたが、どの家も、どの部屋もガラス製の魔法瓶を置いていました。中国だけでも相当な本数だと思います。きっとそれらは全てステンレス製に変わっていると思います。それだけに台湾工場の業績は素晴しいものだったと思います。
そこで彼の業績をたたえて、合弁事業30周年を記念して、台湾の林会長が彼の銅像を建立したのだと思います。
高真空ステンレス魔法瓶は嵐氏と古市氏の四寮コンビの宝であり、我々の宝でもあります。

 
嵐敦子様(嵐氏ご夫人)     嵐氏ご長女裕美子様  序幕式(2017年11月11日)
台湾 林文雄会長        サーモス 樋田会長  
 
嵐氏の銅像(台湾、於サーモス公園)